誰も本当の聖書原理主義を知らない
俗世の「キリスト教原理主義」は偽物
(※この記事は太陽暦二千二十二年五月二十八日に公開した記事の再掲です(一部加筆修正あり))
こんにちは。
世間では、「聖書原理主義」について、多くの人が見当違いな認識を持っています。しかし、ただの勘違いでは済まされない事情があるため、本来の認識をお伝えします。
「原理主義」の意味と本記事作成の背景
まず、「原理主義」という言葉の意味合いを確認してみます。一般的には、「基本的な理念や原理原則を厳格に守ろうとする立場。市場原理主義など。聖典や教義を忠実に解釈し実践しようとする思想や運動。イスラム原理主義など。」(引用元:コトバンク (kotobank.jp))という意味合いです。例えば、「キリスト教原理主義」、「イスラム教原理主義」、「市場原理主義」といった使われ方が多いです。しかし、どちらかと言えば、極端な思考だとか、否定的な意図で用いられることが多いと思います。ですが、「原理主義」が果たして極端でおかしな危険な思想だと言えるでしょうか。確かに、そもそも依拠する内容自体に問題があれば、その原理主義は客観的に見て問題があります。しかし、聖書原理主義、すなわち聖書に忠実な姿勢を非難することには、大いに疑問しかありません。決して、自分が聖書をひいき目に見てるからではなく、非難する側の主張や認識が明らかにおかしいからです。したがって、今回は特に聖書に忠実に従って生きることが全くおかしいことではなく、それどころか聖書に書かれてることが人間にとっていかに健全であるか、これまで学んできたことを活かして意見を述べようと思うところです。ネット上でも、聖書に関して無知にも拘らず、聖書の内容やキリスト者らに対して平気で根拠なき誹謗中傷をする人も目にします。そういった人たちも含め、何かの気づき及び認識や行いを改めることのきっかけになれば幸甚です。
お伝えしたいおもな項目
「聖書原理主義」への誤った見方の訂正
聖書こそ、人間や社会を健全にさせる善いもの
神の律法を無視する世俗社会こそ間違いばかりで不幸
世の「キリスト教原理主義者」≠聖書原理主義者
聖書原理主義が決して危険ではなく、むしろ大いに健全であることを述べる前に、まずは、「キリスト教原理主義」と調べるとよく出てくる米国のキリスト教原理主義者の考えや行動を見てみます。
「反同性愛、反中絶、反進化論、天動説支持、反共主義、反イスラーム主義、反フェミニズム、人種差別、ポルノ反対、性教育反対、地球平面説支持、エクソシズム信仰、神秘主義傾倒、家庭重視、小さな政府、共和党支持などが主な主張である。信者は南部、中西部で特に多い。テレビ伝道師やメガ・チャーチで説教し、多額の寄付を集める牧師も存在する。原理主義者は、公立学校における進化の代わりに、創造主義を基盤とする仮説であるインテリジェントデザインを教えようと試みてきた。(引用元:キリスト教原理主義 - Wikipedia(アメリカの原理主義者))」
これらのうち、聖書に忠実な人間なら到底しないはずの思想や行いの項目が含まれています。まず、同胞と外国人で少々扱いが異なることはあっても、人種差別なんて、隣人愛の欠片もなく許されるはずがないです。そもそも、聖書的にどうというよりも、人間として甚だ問題があると言わざるを得ません。白人の過去の侵略や植民地支配の歴史が消えることはないです。過去の植民地支配や現地人への改宗の強制等を挙げ、聖書に対して文句を言う人もいますが、それで聖書を貶すのは誤りです。たとえ、彼らが信仰を口実にして正当化するとしても、明確に「殺してはならない」(十戒の第六項目)と教えられているとおりで、暴力等も論外であり、搾取も到底許されません(申命記二十四章十四節参照)。旧約時代において、古代イスラエルの人々に異邦人へ攻め入ることが認められたのは、神の御計画の下での極めて例外であって(対象の異邦人も神に従う正しい民族ではなかった故の報いでもある)、過去の植民地支配等は彼らの醜悪な欲望に基づいたものでしかありません。いくら人間側が正当化しようとも、神の目に正しく映ることはないです。
次に、「エクソシズム信仰」についてです。「エクソシズム」とは、古代ギリシャ語でいう「(特に悪霊を)外に追い出すこと」といった意味で用いられますが、悪霊の追い出しで満足する自称キリスト者は正しくありません。主イエス・キリストは、たとえ悪霊を追い出そうと、人間自身の品性が悪いまま(神の律法を遵守しない、善行を行わない等)なら悪霊が戻ってきて更に悪い状態になることも明言しました(マタイ十二章四十五節参照)。これを理解してるなら、悪霊の追い出しにばかり傾倒するのは有り得ず、彼らは聖書原理主義ではないと明確です。
更に、「神秘主義」についてです。「神秘主義」の辞書的な意味は、「神や絶対的なものと自己とが体験的に接触・融合することに最高の価値を認め、その境地をめざして行為や思想の体系を展開させる哲学・宗教上の立場。(引用元:goo国語辞書)」です。「霊」的なことに興味を持つ人は一定数おり、キリスト者を自称するする人でも度々癒しや奇跡について言及する人もいます。確かに、一世紀当時、主イエスや使徒たちが癒しや奇跡等を行うことはありましたが、主イエスがそれらを執拗に求めたり傾倒したりすることの問題を言及しておられます(マタイ二十四章二十四節 他 参照)。神の律法でも、降霊術や霊との交信や占い等が明確に禁じられている(申命記十八章十一節参照)とおりです。自らを高められるどころか、悪霊と繋がるだけで、有害無益です。「スピリチュアル」系も同様です。したがって、「神秘主義」に傾倒する者が聖書に依拠しているとはとても言えず、不思議な現象等の虜になって気が狂っていると言えます。
こうして考えると、米国の原理主義者と呼ばれる人たちも、聖書にきちんと依拠してるとは言えず、そんな彼らを見て「聖書そのものがおかしい邪教だ」等と決めつけるのも誤りです。米国の原理主義者は、所詮「米国のプロテスタント諸派内で生じた思想」、すなわちパウロ教であって、聖書に反してるのも不思議ではないです。
パウロこそローマ・カトリックの創始者、教祖であると書いた。ローマ・カトリック教会は「大バビロン、淫らな女たちと地の忌まわしい者たちの母」(黙示録十七章五節 (引用元の記事著者による訳))たる存在で、その娘に当たる他の正教会やプロテスタント等も同じ穴の狢で、ローマ・カトリックから生じた分派やからや。(引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 七(真の聖書福音と預言))
上記引用にあるように、もともと西洋に広まった「キリスト教」というのは、引用元のミカエル氏の記事の連載で示されてるように、パウロという使徒を勝手に自称した嘘つきによる偽教義が継承されてるからです。例えば、律法廃止論や福音の三要素を信じれば救われる等が挙げられます。『上述したパウロの言葉(ローマ十五章十七節〜十九節の箇所を指す)から分かるとおり、パウロは「しるしと奇跡」を強調した。(引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 五(真の聖書福音と預言))』のとおり、パウロの悪い行動は自称キリスト者にも継がれており、先ほどの「神秘主義の傾倒」も少なからず偽使徒パウロの影響があると推測します。
米国での「キリスト教原理主義」と言われる人々の行いや思想のうち、聖書に基づいておらず傍から見ても奇妙でしかない項目に関しては、非難されても文句は言えません。そして、彼らがおかしいからと、聖書原理主義である真のキリスト者(主イエス・キリストを師として模範とする)を異常者扱いすることは大間違いです。
世の多数派の大きな勘違い
聖書に反してないことまで貶めるのは非常に問題です。神の存在や世の中の仕組みをきちんと理解すれば、進化論、地動説及び球体説こそ大きな欺瞞だと気付けます。聖書から、太陽や月や星といった天体も被造物であり、創造主である神がそれらを地上の周りで動くように定めておられるという認識に至ります。世間で広く言われてる進化論や地動説を否定してるからといって、科学のすべてを否定してるわけではありません。(悪用されなければ)科学技術の恩恵は大いにありますが、所詮は人間の産物である科学は、決して万能ではないです。科学で説明できないことがたくさんあることは、ご存知だと思います。だからこそ、中傷される筋合いは無いです。繰り返しますが、「反科学」ではなく、反聖書的でありどう考えても辻褄の合わない似非科学を信用してないだけです。
上記に限らず、一部では、同性愛的行為を含めた性的倒錯の否定や反中絶に対する非難も見かけます。しかし、彼らはその根拠をきちんと吟味せず、主観で判断して一方的に文句を言うことが多いため、これらについても言及しようと思います。
まず、同性愛について、聖書にこの言葉自体が直接出ることは無いのですが、同性愛に相当する行為が神の御目に悪いことであるのは、神の律法(レビ記十八章二十二節他、同書二十章十三節ほか参照)から明らかです。一応、パウロの手紙でも正しくない行いの例の一つとして、男色(女性どうしも同様)が挙げられています(コリント一 六章九節参照)。それ故、性的倒錯を認めないパウロ教徒が居っても不思議ではありません。同性愛だけでなく、特にレビ記十八章においては、あらゆる種類の姦淫が禁じられてます。言い換えるなら、性行為が許される関係は、結婚した夫婦間のみであるということです。一見厳しいようではありますが、聖書に則った本来の性に関する秩序こそ、最も合理的だと思います。これまでの「常識」や偏見を捨てて冷静に考えるなら、納得がいくのではないかと思います。また、結婚した男女は二人一体となるという性的結合を意味します(マタイによる福音書十九章四節~六節(創世記二章からの引用を含む)参照)。結婚というのは、我々が思うよりずっと厳粛なものと言えます。しかし、残念ながら、特に現代では昔に比べ、更に多くの人が性的にも堕落しきってます。皆が正しい教育を受け、かつ、聖書を学んで本来あるべき秩序を理解して従うのであれば、不倫や醜い争いも起こり得ません。性犯罪以前に、そもそも他人を情欲な目で見ることもないし、現状とは比較にもならん位に平穏になるはずです。残念なことに、「そんなん知らん、好き勝手させろ」みたいに反発する人が少なくないと思います。ですが、冷静に考えてみて、性的に放縦な人が多い現実の世俗社会のどこがまともなのでしょうか。
現代では、性的な描写を映した媒体が当たり前のように存在しています。出演者や撮影者はこれで収入を得ており、やってることは「売春」と変わらないと感じます。これらによって、性的な倫理観が昔よりもますます欠落することに繋がったと考えられます。しかも、中にはアダルトビデオに出演を強要される被害があるようです。手口として、「高収入」、「芸能界」といった欲につけ込むものが多く、如何に人間の持つ欲が裏目に出るかがわかります。そもそも皆が利用しなければ、このようなことも起こりません。
そして、中絶についても、こちら(日本経済新聞 (nikkei.com))のように、米国の一部の州で禁止する法案が可決され、一部で話題となりました。結論としては、聖書的には中絶も認められるものではないです。中絶は、世俗社会の法律では認められるとしても、母体で育った命を途中で人為的に打ち切ることになります。殺人行為に等しいため、胎児に申し訳ないでは済まない程の後悔に苛まれる人の話も聞いたことがあります。意図的に婚外性交(婚姻関係に無い男女間)をしなければ、望まない妊娠なんてしないで済むのに…。当事者の男女が、性行為には命という重い責任が伴うことを認識せんかった報い、理性の無い獣のようにほしいままにした結果であって、同情の余地は無いと思います。厳しいかもしれませんが、客観的に考えれば妥当な見方と言えます。一方、強制的な性暴力の被害により、望まない妊娠をする羽目になる例も珍しくないです。強姦が重い犯罪であり、あるまじきことなのは言うまでもないですが、被害者側もただ被害に遭って泣き寝入りするのではなく、迅速な行動が重要とのことです。迅速に警察に通報して告訴し、証拠の採取に協力するようにしてください。実際に被害を受けた場合、迅速に産婦人科で診察してもらい、緊急避妊薬を処方してもらって服用するという対策があります。詳細は、必要に応じてご自身で調べてください。そもそも、異常性欲の持ち主から目標とされないようにすることが望ましいです。自分の身を厳重に守るために、どう対応または対策すべきか一人一人が考えなければならないと思います。目を付けられるような人は、外見を必死に良く見せようと着飾ったりしてませんか。あるいは、露出の多い恰好はしていないでしょうか。神の律法に適った衣服である、房を付けた和服(よく「着物」と認識される形のもの)は、現代で広く普及してる洋服と異なり、肌の露出が少なく、身体の線の強調もないです。日本らしさを守ることにも繋がるし、とても理に適っています。昔の庶民が着てたような地味なものなら、なお良いと思います。あらゆる性産業や性的な問題に関しても、中絶の問題に関しても、世界中の人が聖書に基づいた認識を持って行動を取っていれば、そもそも概念すらないはずのものです。聖書に基づいた内容を非難する前に、まずはご自身の行動や認識について見直すことを推奨いたします。
聖書通りに生きることは健全であると示す多数の根拠
他の観点からも、聖書原理主義が危険だなんて大嘘であると示します。
聖書に依拠するなら、いかなる理由でも殺人をしたり身内や隣人に危害を加えたりしないのは言うまでもなく、それらが一切正当化されることもありません。それどころか、主イエス・キリストが教えた慈愛の精神を体現するようになれば、利己主義とは無縁となります。わしもまだ完全には至らず成長の余地はまだまだあると思いますが、以前よりは周囲や世界について関心を持って考え、気を配れるようにはなってきたと感じております。以前は「自分さえ良ければ良い」という思考に支配されてました。しかし、他者が抱く苦しみが巡りに巡り自分自身にも少なからず影響を及ぼすようになる例も全く珍しくないという認識に至っております。例えば、コロナ偽感染症騒動によって、もし自身の収入に直接は影響がなくても、例えば取引先や普段利用する店が潰れでもしたら何かしらの影響が出ます。経済的に困窮する人が増えれば、景気は上がるはずもなく、社会全体に大きな悪影響を及ぼすことになるでしょう(しかも、ウイルス自体が存在しないからこそ、庶民は猛烈に反対かつ不服従すべき)。災害が起きれば、たとえ自分の住まいに影響は無くても、農作物や被災地の社会基盤が大きな被害を受ければ、物資の供給にも大打撃があります。あと、国民が政治や法や社会問題についてまるで他人事かのように捉えて興味関心を抱かず、日々の生活や快楽ばかりに意識を向けた結果、悪政を止められずに国側はやりたい放題となり、国民が苦しむことになっています。他国の事例も然りです。英国政府が不法移民対策として、英国での就労時の電子身分証(デジタルID)を義務化したのは記憶に新しいと思います。政府は不法移民を増やした張本人でありながら、もっともらしい理由をつけて電子身分証を強制し、国民を徹底的に監視管理、すなわち新世界秩序導入に繋げようとしてます。日本も同様で、売国奴だらけの日本政府や自治体が不良外国人を大量に入れるし、個人番号件が無いとあらゆる役務を使えない事態にしようとしています。
米国と偽イスラエルによるイラン攻撃も、日本政府は加害者側(米国と偽イスラエル)に与し、改憲して参戦しようとする始末。このように考えると、主イエス・キリストの精神に反する利己主義(自分さえ良ければ、他は関係ないみたいな思考)がいかに悪いか分かります。日本の政治家も、自国民を苦しめ続ければ自分達の地位も危うくなるし、結局米国や支配層から捨てられるだけなのに、自己保身や目先の利益ばかりで、あまりに愚かです。庶民が声を上げず抵抗もしないほど、状況はますます悪化します。無抵抗な民衆も同様に愚かです。反対に、主イエス・キリストが教え自ら体現された慈愛は、人間を健全にするうえで最も必要だと断言できます。慈愛に限らず、他の数々の教えも人間としてあるべき姿を示したものばかりです。律法の書、及び律法に基づく主イエスによる伝道や預言者の書、使徒や真のキリスト者の書簡(パウロは偽使徒であり、偽キリスト者であるため、除外)を理解する程、人間が秩序正しく健全な生活を送るうえで欠かせない規定ばかりだと理解できます。例を挙げますと、誰であれ一方に偏って不正な裁判をせず公平に裁くように書かれており(レビ記 十九章十五節~十六節参照)、賄賂も禁忌です。
これが実践されるなら、悪人は正当に厳しく裁かれるだろうに…と思います。実生活でも、正当な理由なく特定の者に与したり不当に人を判断したりしないことにも活かされると思います。冤罪も、明らかに不合理な不起訴も無く、常に公正な裁判がなされ、日常でも無益ないざこざ等も無いに違いないですが、現実は真逆に等しい状況ですね。
他にも、給与支払いについても、すべての人にとって有益な規定があり、神の律法通りなのは、日払い(かつ日没まで、すなわち一日が終わる前まで)です。日払いの合理性については次のように説明されています。
このように神の律法どおりに日払いにしていれば、太陽暦と月給制や年俸制で生じるような詐欺は起こり得ないのです。なぜなら、日払いやからです。日が入るまでの支払いというのは、日没が一日の始まりであり終わりであるが故です。正しい暦である太陰暦(太陰太陽暦を含む)においては、日没してしまっては日付が変わるさかい、日払いを実現するために日没前の支払いは当たり前です。日払いであれば、太陽暦の下での月給制や年俸制を悪用して賃金の誤魔化しは出来へんからです。(引用元:太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度(真の聖書福音と預言))
この引用元記事の前には、太陽暦や月給制及び年俸制が給与支払いにおいても詐欺の要因になってることが論証されています。太陽暦や月給制がここまで我々を陥れてるのか、同時に、律法はとても合理的だなと驚いた次第です。どれだけ世の中全体が創造主なる神を無視して、自分たちの首を絞めているか…。
ここまでご覧になり、聖書から学び神に服従することなくその律法や掟を守らないからこそ、結局のところ自分第一である人々がいかに悪い世の中を形成しているか、少しでもお分かりいただけたでしょうか。たとえ世の中のおかしさについて気がついても、それだけでは内面が根本的に変わることはなく、俗悪な社会に踊らされるだけです。悪魔崇拝や世の構造を認識しながら、支配層が作った悪い慣習や行いに加担する人がほとんどであり、これでは彼らと運命を共にしても何ら不思議ではありません。自分自身も信仰に入ってから内面や価値観がだんだんと変化し、この世の欺瞞についても新たに学びを得たことがたくさんありました。確かに、聖書に出会い、学んで実践することで、世間的にはいたって普通のことと看做され当たり前のようになってる事柄にも反対することがあり、世間一般で持たれるような価値観や考えとは相容れず、異様なのかもしれません。しかし、人類史から考えるだけでも、大多数の考えることのどこが正しいでしょうか。所詮人間は、自分の寿命も未来のことも見通せず、生まれてもすぐにこの世から去る儚い存在。科学技術や学問といった大いなる進歩はあっても、まだまだ計り知れないことが山ほどある無力な存在。神を無視して、これまで一つも理想的で完全なる秩序や社会を作り出せず、逆に過ちばかり繰り返してきたことを踏まえ、人間が置かれた本分を弁える必要があります。今まで染みついてきた偽りの「常識」等を捨て、認識をがらっと変えれば、皆さんの行動や運命も変わっていくかもしれません。
聖書原理主義にだけ希望がある
画像引用元:https://ameblo.jp/leo085/entry-12939824473.html
このような世の支配構造では、悪人が正当に裁かれることはまったく期待できません。せめて、庶民の多数派が団結して支配層に抵抗すれば良いのですが、支配層の奴隷と化しています(自覚がないだけ)。
聖書原理主義こそ、この引用画像にあるとおり、悪い俗世の支配構造から抜け出すことができます。画像の右上に書かれてる、支配層や庶民の実態と、聖書の内容を比べてみてください。違いが一目瞭然です。聖書原理主義、すなわち真のキリスト者は、この俗世とは相容れない故に、今はとても生きづらいものですが、大艱難を経て主イエス・キリストが再臨された時、たとえ信仰ゆえに処刑されたりしようと復活し、悪も苦しみもない世界へと至ります。ただし、すべての人間を正しく導く聖書に出会っても、パウロ教信者や信仰が続かない人は対象外です。悪の元締めであるローマ教皇やイエズス会と同類であるため、明るい希望はありません。
仮の世であるこの世の人生では、いつ何時も忠実に神に従う姿勢でいられるか等を試されています。しかし、各人が自分一人だけでできることに限界があります。「正しい警告を見極め、素直に聞き従う」ことは非常に重要だと考えています。人々はあれこれ「○○が実現するかな」等と目論みますが、あくまで神の御計画が必ず実現されるのであって、支配層を含めた人間の計画は必ずしもそうではないです。バベルの塔の件をはじめ、過去からずっとそうです。聖書で起こると言われていた預言はことごとく実現され、今後もすべてが必ず実現されます。聖書では、人に惑わされないようにせよと警告もされてるからこそ、信用すべき人物や発信内容を吟味する必要があります。庶民の味方の振りをして致命的な誤誘導をする工作員(例:有益な発言をするが改憲推進派)が多く、誰を信用して良いか確信できない人も多いかと思います。人を慎重に見極めることは必要です。しかし、聖書福音や聖書預言に関して正しい内容を熱心に発信している人を無視または軽視するなら、更に日本や世界の状況が悪化する一方で、貴殿自身も途方に暮れることになります。祖先のイスラエルの人々が亡国の目に遭ったのも、現在の日本人が悪政に苦しんだ挙句再び亡国の危機に瀕しているのも、日本人が本物の神(主イエス)に長年立ち返らない故です。にわかに信じ難いかもしれませんが、これもミカエル氏によって、荒唐無稽な話ではなく明らかな根拠に基づき説明されています。世俗社会のことばかり知識をつけたり考えたりしても虚しいです。あくまで世の実態や動向を知るのは、賢く備える上で必要な手段の一つに過ぎないからです。もし自由がなくなったら、世俗社会で生きることが第一になってる人々は、命や生活を惜しみ、支配層に屈するに違いありません。俗世に未練があるままで、支配層に抵抗する強い動機が無いからです。けれどもほんの一部の人だけが悪に抵抗しようとするが大多数は無抵抗であり、支配層や政府や各機関がやりたい放題しても裁かれない腐った世俗社会に拘る理由は無いと思います。主イエス・キリストの再臨での復活や後の世こそ希望です。聖書に関心があるなら、以下が貴殿にとっての最適な選択になります。




